福音のオリジナルとは何か コリントの信徒への手紙13回シリーズ

2024.4.7  コリントの信徒への手紙13回シリーズ第1回

 

十字架の言葉にこそ神の力がある

本日のメッセージはコリントの信徒への手紙一1:10-18(新約299頁)より「十字架の言葉にこそ神の力がある」と題して、コリントの信徒への手紙一、二13回シリーズ第1回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

今週の聖句は「十字架の言葉は、…神の力です。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。召された者には神の力、神の知恵。」ヨハネ福音書1章18節、23-24節抜粋(新約300頁)といたしました。これらは1章18節と23節と24節の聖句を抜粋しています。抜粋している理由はこれらの箇所の元々の表現のままだと私たちを救われる者と想定し、私たち以外の人々を滅んでいく者として除外してしまっているからです。しかしこのパウロの滅びと救いという思想は批判されなくてはなりません(ヨハネ福音書3:16などの福音書もこのような思想となっています)。

イエスがあらゆるいのちに対しても変わりなく注がれる憐れみ深い創造主の慈愛(マタイ5:43-48)を説き、ユダヤ教の偏狭な世界観をいのちをかけて打ち壊されたのに、パウロが主の晩餐の贖罪論的な教えを説く1コリント5:7や、ヨハネ福音書1:29「神の小羊」など、新約聖書はイエス個人に贖罪をあてはめてまたぞろ贖罪思想と救済思想とを持ち込んでしまっており、伝統的キリスト教はその上に成り立っています。

 私たちはキリスト教を超えた宗教多元主義に立ってゆきたいので、滅びという言葉を用いている本日の箇所もきちんと批判し、取捨選択してゆきたいと思います。それゆえ私たちは自分たちと区別し「滅んでゆく者」(1コリ1:18)などと表現することをやめて、すべての者に十字架の言葉が必要であると説いてゆきたいと思います。事実すべての人々にとって例外なく神の力となる十字架の言葉が必要だからです。

では十字架の言葉とは何でしょう。それは十字架の死に至ったイエスの生きざまを通し語られたイエスの一つひとつの教えです。けれどイエスの教えとされる一つ一つを私たちは吟味してゆかねばなりません。イエスは何一つ書物を書き残しておらずイエスの教えとされているものは後世のキリスト者らが編纂したものであるからです。聖霊なる神に導かれて、私たちはキリスト教の教えの一切を捉え直し、福音のオリジナルを創り出さねばなりません。そのことによって今私たちが学んでいる愛と非暴力的平和と正義と平等である福音のオリジナルが世界に少しずつ浸透してゆき、現代社会のおぞましい弱肉強食の現実が創り変えられてゆくのです。愛と非暴力的平和と正義と平等を貫く道を切り開く力ある十字架の言葉を私たちは語り継いで参りましょう。十字架の言葉にこそ神の力があるからです。

 私たちは5人でも3人でも、たった1人であってもイエスのように愛を貫くことができます。世の中がどんなに歪んでいても私たちは愛を貫き最高の道(1コリ12:31抜粋)を歩みましょう。それが十字架の言葉に聴き、それを語ることにつながるのです。そうして私たちはこれから一人ひとりと出会ってこの群れに迎え入れてゆこうではありませんか。